手記 01 Note 01

50代女性の場合 痛みとの共存に至るまで

痛みとの共存に至るまで
岩手県在住 50代女性

<どうして痛いの?>
私が痛みを意識するようになったのは、かれこれ12年前になります。
もともと腰は弱いほうだったので、ちょっと無理するとすぐ腰にきましたが、10分程度横になれば元のように動くことが出来ていました。ところが、平成8年に乳癌摘出術を行った頃から常に肩から右指まで痛みと左の股関節に痛みを感じるようになりなりました。私は、この痛みが何なのか知りたくていくつかの整形外科を受診しましたが、異常はみられず、痛みを緩和する為の湿布を処方されるだけでした。もちろん入院した病院の医師にも「痛み」を訴えましたが、「今回の手術は成功しているので、痛みは関係ない」と言われ、「医師に話しても解ってもらえない」と医師に対して不信感を持つようになりました。それからは病院には行かず、痛みを我慢しながら生活していましたが、痛みは益々強く感じるようになりました。ベッドに寝ていても同じ体位をとる事が困難になり、頭痛・腰痛・胸痛・左下肢の痺れ・不眠に悩まされました。
そして平成16年4月、私はとうとう痛みで一歩も歩くことが出来なくなりました。寝ていても痛みは治まらず、総合病院の整形外科に受診し「腰椎椎間板ヘルニア」と診断され、手術をしました。ところが、手術をしても痛みが取れません。午前中はどうにか動けても、午後は立つのが精一杯となり、夕方には歩行不可能の状態でした。夜も痛みで寝られず、眠剤を処方してくれるようお願いしても「眠れるはずだ。眠る事が出来ないのは、日中動いていないからだ」と看護師に言われ、看護師に対しても不信感を持つようになりました。そうなると一日でも早く病院から離れたくて、私は医師から「退院」の話が出るとすぐに退院しました。実は仕事にちょっと穴をあけてしまったので、その焦りもあったのですが…同年5月に退院し、6月中旬には職場に復帰し今までと同じ量の仕事をこなしました。

けれども体は正直で、入院中よりも痛みは強くなっていきました。紙を一枚持っただけで痛みが走り、立っているだけで足が前に出ません。入院していた時の担当医師に痛み止めを頼んでも「痛みがあるはずがない」の一点張り。その内「治したのではなく修理しただけだから、無理をすれば痛くなるのは当たり前。無理したらもう自分の足で歩くことはできないぞ。まぁ半分そうなっているけれど」と言われ、「手術なんかしなければよかった」と後悔の涙がとまりませんでした。

幸い勤めていた職場は医療系の職場だったので、職場の医師に痛み止めの座薬を出してもらいました。その時も「何だこれは、神経と皮膚が癒着しているぞ。仕事をするレベルじゃないぞ。私にどうしろと言うのだ?こんなになってから…。」と投げやりな医師の言動に「またか」と思いました。けれども、今回は好きな時に受診できるので、色々腹の立つことを言われてもそこは涙をのんで痛み止めを処方してもらいました。
初めは2時間程痛みから解放されていたのですが、だんだん効かなくなり仕事を続けることが出来なくなり、とうとう同年10月職場関連のペインクリニックに入院となりました。入院してから硬膜外ブロックの注射をしましたが、30分程度しか効かず、ほとんどベッドでの安静生活になってしまいました。その頃、私は公私共にかなりのストレスを抱えており、上手く事が運ばない事が痛みを助長していたみたいです。医師も何の処置も出来ず、最後には「私には治せないからここに入院している必要がない」と言われ、退院するしかありませんでした。退院する前に、上司から総合病院のペイン外来を紹介され受診しました。そこでも「派手に切られたなあ。こりゃあ痛みを無くすには神経を切断するしかないよ。ただ車椅子での生活になるぞ。いずれにせよどうしようもないよ。もう一度手術をした医者のところに戻れ」と言われました。痛みの原因を知りたい私に対して医師達は、それなりに病状を診てその酷さを説明していたのでしょうが、私には医師の言う意味が理解できず、むしろ医師の言葉つきのみが心に突き刺さり不信感がつのりました。

私は、クリニックを退院した足で手術をした総合病院の整形外科を受診しました。前もって電話をしていたので、待たされたけれども診察拒否はありませんでした。緊急で痛みの処置(透視ブロック)とMRIを撮り、医師から「痛みが取れなかったら3日後、とれた場合は来なくてもよい」と言われました。案の定、痛みは取れませんでした。3日後の朝、医師のほうから「他の病気かもしれないからすぐ来るように」と電話があり、急いで病院に向かいました。その時は、もしかしたら「乳癌の再発?」と言う言葉が脳裏をかすめましたが、受診の科は産婦人科でした。婦人科の検査結果を見ながら医師は「なんだ子宮癌だったら良かったのに」とつぶやきました。その言葉を聞いて「むっ」とはきましたが、医師の無情な発言には慣れてしまい半分「どうでもいいや」と投げやりになっていました。医師は「仕方がない。入院して様々な検査と透視ブロックと痛み止めの注射で様子をみます」ということになりそのまま入院となりました。病棟は以前と同じ棟で、顔なじみの看護師達でした。看護師達は半年間で歩けなくなった私を見て、びっくりしていました。治療内容は、痛みの緩和として毎日痛み止め(準麻薬)注射を朝・夕と週1回の仙骨ブロック注射、眠剤、安定剤、ノイロトロピンの服薬でした。殆ど痛みを取るための注射と薬漬けでした。それでも痛みは取れず安静を言渡され、一日中病室での生活でした。無論外泊は禁止だったのでクリスマスも、お正月も一人ですごしました。自分しかいない6人部屋はいつもより広く、時間まで止まってしまった感じがしました。

1か月すると私の身体は毎日の注射で筋肉が硬くなり、硬くなった筋肉にまた注射をするのでまた痛みが出てくるし、透視ブロックも続けているうちに他の部位の痛みが出てくると言うまさに堂々巡りでした。入院して3か月近くに看護師に「カウンセリングにいきませんか」と言われ、精神内科に受診しましたが、医師は私の話を聞かない内に「良い薬がありますよ。どれにしますか?うふふ」とどう理解したらよいのか解らない含み笑いをしたので「私はカウンセリングを受けに来たのです。薬の話をしに来たのではありません」と言って診察を拒否しました。それから皆の態度が変わり始めました。そんな矢先、医師に呼ばれ「私は貴方と特別な関係ではないのにどうして君は私に特別な扱いをさせるのか?もうそろそろ観念したらどうかね」と言われました。その言葉を聞いて私は「やはり、私の痛くて辛くてどうしようもない心境を解ってくれない」と思い、自分の方から退院の日を決めました。長い入院生活でした。家に帰ってきた時はもう春でした。平成16年度の年は殆ど入院生活で終わってしまいました。

自宅に戻って来ると、今度は親や親戚の者が「民間療法が良い」と言って経絡・マッサージ・温熱療法・接骨院での治療・カウンセリングを勧められ、色々試してみてもやはり痛みは取れませんでした。結局また整形外科に受診するはめになりました。今度の医師はスポーツドクターの免許をお持ちでした。痛くて動かせない部位にはサポーターをつけ、1日30分は歩くように言われました。治療内容は、週1回の痛みどめ(麻酔)、ノイロトロピンの服用、座薬の使用、理学療法でした。一日でも早く良くなりたくて、痛くて動かせない足にサポーターをつけ歩きました。結果少しは歩けるようになりましたが、かえってその反動が出て、午後は殆どベッドに横になって痛みを我慢するしかないのでした。この頃から首から左手指関節に痛みが走り、普通の食器を持てなくなり、軽い器(プラスチック)で食事をするようになっていました。また、常に体が冷えていて、それがまた痛みとなり、湯たんぽを抱えての生活でした。

平成17年の秋、新しい場所で親子3人の生活が始まりました。見慣れない土地で、いままでの空間より狭い所での生活は互いにストレスを感じるようになりました。特に私は傷ついた自分の心を癒すだけで精一杯で、相手を思いやる気持ちの余裕は有りませんでした。また、今回の転居の一因を作ったということで心のバランスまで崩してしまいました。受診も距離的に通う事が困難になり、しばらく治療から離れていましたが、益々痛みはひどくなる一方でした。

平成18年1月、私は「最新式の機械を持っていて、様々な検査してくれる」という口コミで知ったクリニックを受診しました。そこの医師は今までの医師とは違って私の痛みを解ってくれ、指圧痛点・MRI・血液検査等を行った上で「線維筋痛症か反射性交感神経性ジストロフィー」と診断を下しました。そして「最近知られるようになった症状で、原因は『セロトニンなどの神経伝達物質に関係がある』までは解っているが、解明されていない。又、治療がハッキリしていない」と説明してくれました。治療内容は、ノイロトロピンの注射と1週間に1回局部麻酔の注射と理学療法を受ける事となりましたが、もう痛みが全身にあったので、理学療法を受けようとしても、ちょっと触られただけで痛みを感じ理学療法どころではありませんでした。また、注射の効果があるのは、入院していた時と同じく2時間だけで後は痛みとの闘いでした。そこのクリニックにタクシーで2カ月通いましたが、痛みどめの注射をするたびに状態が悪くなっていき、歩行・寝返り・起立・座位保持・食事摂取・衣服の着脱・入浴・排泄等を自力で行う事が出来なくなり、ミキサー食に近い物を母に食べさせてもらうようになってしまいました。その内私は食事を取ることも苦痛になり、だんだん食事を取ることを拒否し体重が42kgまで減りました。その他に口渇・頻尿・便秘がひどく、30分おきの水分補給とトイレ通いに悩まされました。また、人との会話も口渇の為上手く舌が動かず、自分の意思を伝える事が出来なくなっていました。

<一人からチームでの闘い>
外来への通院が困難になりはじめた頃に、医師から「診察室を持たず往診だけを行っているクリニック」への紹介の話がありました。私は、そのようなサービスがある事は知りませんでしたので、少し不安になり「まず、訪問看護師に私の状態を見てもらい、それから往診のサービスを受けたい」と言うと、医師は了解してくれました。訪問看護の存在については仕事の関係で知っていましたので、早速訪問看護ステーションに電話しました。その時の状況を今でも忘れません。指先に激しい痛みを感じながら必死に訪問看護ステーションの電話番号を探しました。やっと電話番号を見つけたものの、ダイヤルする頃には受話器を持っているのはもっと苦痛でした。受話器から看護師の声が聞えると、私は必死で受話器を抱え、自分の状態を半分泣きながら一方的に話しました。電話先の看護師は、私の訴えを最後まで聞いてくれ、「来週に訪問します」と優しい声で答えてくれました。電話が切れると私は、「もう一人じゃない。これからは、この苦しみを一人で抱え込まずに済む」とホッとしましたが、今度は期待と不安で興奮気味になり、食事も取らず、痛みを堪えつつ一夜を過ごしました。今考えると、もしあの時、電話での看護師との出会いが無かったら今の私はいなかったかもしれないと思うのです。

翌週の月曜日に看護師は自宅へ来てくれました。その時の私は、痛みでびくとも動けず、ベッドに仰向けの状態で左足は伸びたまま、右足は曲り、左手はお腹に置いたまま、右手はだらりと下げたままで、辛うじて息をしているような有様でした。早速看護師が、痛みが緩和するようにと体位の位置をいろいろ試みましたが、どこをいじられても痛みが走り、どうすることも出来ませんでした。水曜日に訪問看護師と一緒に整形外科クリニックに受診し、医師と話し合った結果、今後は「往診クリニックと訪問看護と訪問リハビリ」で私の状態を面倒みることになりました。

話が纏まると、次の日には、医師・訪問看護師・理学療法士がたて続きに訪問し、私の状態を確認して行きました。治療計画は、往診を月2回、訪問看護・訪問リハビリを週2回ずつ利用することになりました。
また、私の状態をみて身体障害者の手帳申請もすることになり、2ヶ月後に私の手元に身体障害2種1級の手帳が届きました。その時の気持ちは複雑でした。やっと手に入れたこの「手帳」で私はどこまで這い上がれるだろう?本当にまた仕事に復帰する事が出来るのだろうかと…
治療目標は、痛みの緩和、身体のバランス調整、身の回りの自立でした。医師は痛みどめの注射にかなり依存している私に、ノイロトロピンより緩和な抗不安剤の注射への移行とアロマ・マッサージを利用し、3カ月かけて注射依存から私を抜け出させました。看護師は、私の身の回りの介助をしながら状態観察と私が少しでも出来る事を見つけ出し誉め、私に自信をつけさてくれました。理学療法士は、身体の機能がアンバランスになっている私の身体に、本来の身体の再構築に努めてくれました。在宅での対応が決まったとはいえ、ここ半年間家族以外の人とほとんど接触をしていなかった私は、毎日のように誰かが自分の部屋に出入りする事に戸惑いを感じました。言うなれば、私のペースと言うより、スタッフのペースで進められるのも辛いことでた。

痛みの他に常に神経が緊張して、光・音・熱・臭いに対してかなり過敏になり、痙攣も出始め、眠剤を飲んでも効かず、夜中2時過ぎから痛み・こわばりが強くなり、目が覚め、どうしようもない痛みと苦しさ・悲しさに、夜明けまで一人で泣き明かす毎日でした。頭に浮かんで来るのは絶望的な事ばかり、日中も不安で部屋を真っ暗にして、自分の部屋から出られなくなりました。往診の医師は私が心のバランスをかなり崩していると診断し、精神科への受診を勧められました。「とうとうきたか」と思いましたが、今回だけは自分もかなり辛かったのでストレチャーで介護タクシーに乗り精神科を受診しました。ここでも医師が入院を勧めるのに対して私が入院を拒否したら「こんな状態で家での生活が出来るわけがないでしょ。だいいちこの症例はまだ手探りの状態で、解明されるのにあと10年はかかると言われています。私は良くなっても車椅子での生活の患者さんしか見たことがありません。もちろん入院となった場合にはチームで治療しますが…」と言われ、てっきり通院だと思っていた親と看護師は次の言葉を失っていました。私は、ここの病院は線維筋痛症の研究している事を線維筋痛症友の会にFAXして教えてもらっていたのでしぶしぶ精神科での入院を同意しましたが、いざ入院に同意したら、現在ベッドが満床のため三環系抗鬱剤を服用して様子を見ることになりました。
私は以前精神科の仕事をしていた為、当時の患者さんの事と今の自分とがダブってしまい、「どうしても入院はしたくない。どうして自分だけがこうならなければならないのか」と声を殺して泣いていました。ところが、精神科で処方してもらった薬を1週間飲み続けていたら次第に気持ちが落ち着いてゆき、やがて自分でカーテンを開け、自分の部屋からも出られるようになりました。それからは日増しに今迄理解できなかったことが一つ一つパズルのようにつながって自分を取り戻すことが出来るようになりました。
2週間後の受診は、別の医師でした。その医師は、初診の医師と違い、こちらの訴えを言葉だけでなく非言語で表わしている部分まで丁寧に診てくれました。又、自立支援医療受給者症の手続きも直ぐに行ってくれました。訪問スタッフ達は「利用できるサービスは全部使おう」と障害年金と特別障害者手当・障害福祉サービスの手続きまで行ってくれました。おかげで1級の障害年金と特別手当が受給され、病院の移送介助と身体介助のサービスも利用する事も出来るようになり、助かりました。

<これからの課題>
それから2年経ちました。今年の3月に身体障害者手帳の更新がありました。2年の成果によって、1級から3級に変更となりました。そのころから、インターネットで見つけたカウンセラーに自宅へ訪問してもらい、自律訓練法とカウンセリングを始めました。
痛みの程度は、以前を10とすれば今は6程度に落ち着いています。心のほうも少し余裕が持てるようになりました。身の回りも時間をかければ、自分で出来るようになりました。散歩も体調が良ければ40分程度は歩けます。
ここまで出来るようになったのは、周囲の方々の励ましは勿論、私と医師・訪問スタッフ達との信頼関係にあります。この信頼関係は短期間で出来上がったものではありません。その起点はカンファランスがあります。カンファランスは、私・訪問スタッフ(看護師・理学療法士・ヘルパー)精神科の医師等で、現状と私の思い、医師・訪問スタッフの考えのすり合わせを年2回行っています。その上で、スタッフ達は携帯電話を上手く利用し、私の訪問時の内容等をメールで各スッタフに報告し、いつ呼び出されてもすぐ対応できるようになっています。
彼らは、夜中や連休中に訪問を依頼したりしても嫌がらず訪問してくれます。又、スタッフの前で泣いたりしても、泣きやむでジーと待ってくれます。「ありのままの私」を否定せず受け入れ、サインを出したときにすぐ対処してくれる。彼らは私の「安心の宅配便」です。自宅で療養している者にとってこれほど勇気づけられる事はありません。こんなに素晴らしい方々に巡り合え、支えてもらいながら生きている私は何と幸せ者でしょう!

しかし一方、辛い事もあります。私は身体の日内変動が激しく、今まで歩いていたのに新しい刺激が入ると「痛みと震え」が出て、動けなくなってしまいます。私の状態を見て手を貸してくれる人、声をかけてくれる人、黙って見ている人いろいろです。けれども皆の目は興味津々で、その視線が痛く心に突き刺さります。その時の惨めな事…穴があったら入りたいくらいです。それと、やはり私は仕事をしたい。けれども4年間のブランクは大きく、再就職は雲をつかむようなものです。仕事については勿論の事、痛みによって発生した諸行動、誤認知を修正するため再学習しなくてはならないことは多く、何時まで経っても仕事に戻る見込みがなうように思えます。こう考えるとつい何の障害もなく、無意識に物事をこなしているスタッフ達を羨ましくなり、時には優しくされることも、苦痛に思えたりするのが正直なところです。(それは、かつて私も同じような仕事だったからでしょうか…)
もう一つは障害手帳の級が上がりました。上がった事は努力の甲斐があってとても喜ばしいことですが、障害年金の受給金額がかなり下がります。更に、生活の質を元気な時と同じにしようと思うと、外に出て行き、種々の体験を積み重ねる必要があります。それは公的サービスでは対応してもらえず、自費で対応してくれるサービスを利用する事が多くなります。とても年金だけでは生活していけません。この事は、私だけでなく、同じ症状で苦しんでいる方々全員にも言えることでしょう。
今私は母親と一緒に生活していますが、母親だっていつまでも元気でいるわけではありません。
母親がいなくなったら、どうやって生きていけば良いのかとても不安です。

この様な事を考えると心が落ち込み、自分の手で人生にピリオドを打ちたくなる衝動に駆られます。せめて、私のような人達に経済的保障と、気兼ねなく社会参加が出来る場所を提供していただければ、どんなによい事でしょう。

最後に、私の痛みは様々な事が絡んでいるので、消える事はないでしょう。これからも痛みと共存していかなければなりません。その為には、「今の状態をそのまま受け入れ、自分の周囲で起こる事をネガティブに考えるのではなく、ポジィティブに考えることが必要みたいです」と悟ったような事を言っていますが、正直言ってこんな奇麗ごとでは済まないのが現実です。私も、時々投げやりな気分になります。それも仕方がない事でしょう。未だに何が原因で、病気としても認められておらず、お先真っ暗の感じです。
このハンディをどうするかは、自分が決める事ですから社会との接触を取らないで生活していくのもひとつですしょう。しかしそれも惨めです。従って、私は今までの生活の質を落としたくなかったなかったので、多くの人にSOSを送りました。それに応えてくれたのが今のスタッフの方々です。
人は一人だけでは生きていけません。その為にも様々な方々とお会いし付き合い、その方々に自分の状態を話して理解をしてもらい、「共に生きて行く」ことが大切だと思います。
とても大変なことですが、痛みを経験した者でしか出来ない事だと私は思います。