闘病記 01 Struggle against disease record 01

「病名を下さい」・・・わたしの闘病記

Essay

想像力とは、既知のイメージを組み合わせたキメイラでしかないとボードレールは言っている。
経験外のことは理解したくないと言う心理もある。人の苦しみは分からない。病気にせよ精神的な悩みにしろ、経験した者でないと分からない。想像力豊かな人でも、「苦しみの種」を経験していないと想像のしようがない。

病気の苦しみ、痛みも人にはなかなか分かりにくい。身内に病人がいたら、ある程度は察しがつく。
しかし残念な事に医者はたいてい健康である。

病院の待合室でよく声をかけられる。整形外科の受診者としては若すぎるので、他の患者の関心を惹くらしい。
「どうされました?骨折ですか?」
私は返事に困る。
「怪我ではないんです。骨の病気らしいんですが、わからないんです。」
「そうですか。未だお若いのにね。」
こんな会話を私はもう31年も繰り返している。声をかけてくる人は50代以降。
私は16歳から始まり今は47歳になる。

この痛みが始まったあの日、あの瞬間は忘れられない。恨みもしない、憎みもしない。
そう出来たらいくらか楽だろうけれど。誰を恨んだらいいだろう。
高校2年、テニスに夢中で、インターハイの予選に出るのを楽しみに練習を積んでいた。
あの日の体育の授業は跳び箱だった。体育はいつもビリで、跳び箱も苦手だった。一番低い3段を、私だけが跳べないで、4回目を跳ばされた時、両足にズキンと痛みが轟いた。
捻挫とは違う。意識が薄れそうになる私に、激しい痛みがまだ足があることを思い知らせていた。放課後長い時間をかけて町の整形外科にたどり着いた。
レントゲンには異常がなかった。両足の膝から踝の間が太く腫れて、発赤も見られた。
骨膜炎かもしれないのでしばらく様子を見ると言われ、痛み止めのポンタールと、ガラス瓶にはいった湿布薬(当時は便利なハップなどなかった)をもらって帰った。
ところがうちに帰ってからも痛みは増すばかりで、湿布薬をガーゼに含ませ、一時間ごとに取り替え、眠る事も出来ない。明け方疲れ果ててうとうとしても痛みですぐ目が覚める。さてどうやって学校へ行くか。
痛くて立つのもやっとなのに歩けるか。しかも通学にはバス、汽車(当時は未だ電化されていなかった)、自転車を使って2時間かかる。重い水薬の瓶も持って行かねばならない。

普段でさえ6キロもある重い鞄、薬の瓶に替えのガーゼに包帯。一足毎に涙が出そうだった。
しかも通勤通学ラッシュで、乗り換えは走らねばならない。一本乗り遅れたら一時間遅刻だ。
何がなんだか、とにかく必死で学校までたどり着いた。一つ授業が終わるたびに更衣室でガーゼを取り替える。
初日で疲れてしまった。帰りに整形外科に寄るのも大きな負担だ。
両足がもぎ取られそうに痛むので、一歩でも歩くのは少なくしたいのに。
「骨膜炎ならレントゲンでわかるんだけれど、違うようだ。骨髄炎かもしれないからしばらくレントゲンで追跡してようすをみましょう。」
「ポンタールは全く効きません。なんとか痛みを止めてもらえませんか。
のんびり様子を見ているほどの余裕はないんです。」
「カプセルの数は指示通りにしていますか。」
「いえ、少し多めに飲みました。でも許容量の範囲です。」
「薬の事は医師の私が決めます。勝手な事をしないで下さい。
それとも、言う事が聞けないのなら責任は持てませんよ。」
「ポンタールの事は私もよく知っています。効かない薬を続けても無意味ではないですか。
治るのなら先生の言うとおりにしますけど。責任が持てないとはどういうことですか。」
なんと生意気な!医師はそんな顔をした。しかし私も必死である。
とにかくこの痛みを止めてもらわねば今夜も一睡もできない。
もっと食い下がろうとしたけれど、医師の顔を見て、虚しいと思った。

この町には整形外科が他にはない。仕方なく引き下がっておくしかない。
骨髄炎なら2週間ほどレントゲンを見れば分かるだろう。それまで我慢するしかない。
でも医師の態度に腹が立つし、痛くてたまらないのだから何とかして欲しい。
「とにかく薬は替えて下さい。登校するのも大変なんです。ボルタレンを試してみたいですが。」「私に指図するつもりなら、さっさと帰ってもらおう。知ったかぶりをして。治療の方針は私が考える。口出ししないでもらおう。」
「だったら何の病気なんですか。痛いのは私なんです。早く何とかしてくださいよ。」
「来週レントゲンを撮るから結論はそれからだ。」
辛い1週間だった。激痛で眠れない。一足歩くにも涙が出そうだ。早く痛みを止めて欲しい。
授業など耳に入らず、一時間ごとに湿布を取り替えるのが日課だった。
湿布と言っても冷たい水と変わりなく気休めでしかない。それでも何かしないと耐えられない。
両足が太ももと同じ太さに腫れ、包帯を巻いているので「象の足」と言われた。
しかし何を言われようと気にならない。痛みだけで気が狂いそうで、他の事にかかわっている余裕はない。
死に物狂いと言うのだろうか、ほとんど眠っていない。どのようにして過ごしていたのか記憶に無い。
人前では涙をこらえるので精一杯だった。夜は布団の中でポロポロ涙が出た。
泣く、というような感情はともなわず、ただ涙が出た。向こう脛をぶつけた時に思わず涙が出るように。

1週間後、レントゲンには何も出なかった。医師は写真を見せながら「何も無い」と断言した。
確かに腫れはあるので「腫れが引くまでは水薬を取りに来るように」と。
では何故腫れているのか。「運動のし過ぎで一時的なもの」・・・。
普通なら医師になんでもないといわれれば安心するのだろうが、「これは違う」という実感が私にはあった。
そんな簡単な痛み方ではないのだ。しかし、もうどうにもならない。
しばらくは湿布をするのが日課だった。熱を持った患部に冷たいガーゼを当てる。そんなのは気休めでしかない、腫れと痛みが何時かは収まるなんてとても思えない。
ほとんど眠れない。パニックに近いかもしれない。何も考えられず、自分を制止しておくだけで手一杯、何時暴れたりわめき出したりするか分からない。
一歩歩く事がとんでもない激痛。湿布を取り替える簡単な作業も大きな重荷になった。他の記憶がほとんど無い。
目の前の一歩、目の前の1メートルをなんとかするしかない。異常所見がないので医師は他の検査をする事も無く、水薬をくれていた。あるときふと「歩くのが大変なら松葉杖を使うか、車椅子というのもある」と言った。

その日から通院するのは止めた。松葉杖や車椅子では通学できない。痛いと主張する事がかえって自分の首を絞める。
頭がツーンと冷たくなった気がした。両親には「ちょっと腫れてるけど大分いいみたい」と言うことに決め、なるべく姿を見られないようにした。両親の動きには注意した。案の定、深夜相談しているのが聞こえた。
・・・「困ったねえ」・・・「退学させるか」・・・「転校させるか」・・・。
絶対に高校はやめたくない。もう誰にも知られてはいけない。保険証を持ち出すと知られるので、病院にも行けない。
勿論「病院」という希望の単語は、既にわたしの頭から消えていた。
発病から(と呼べるのだろうか?病名が無いのだから)3ヶ月が過ぎ、季節が一つ、移り変わった。
眠れない、人前では平気な顔をする、激痛に黙って耐える・・・もう疲れ果てていた、精も魂も。両脚さえなければ、脚を切り離してしまえば、この痛みから開放される!「切断」これが唯一の解決法だ。
この考えが頭から離れなくなった。どうすればうまくできるか。

自宅の前を鉄道が通っている。なあんだ、目の前に解決法があるではないか。
その夜、わたしは迷わずレールに両足を載せた。深夜の貨物列車なら損害賠償額も少ないだろうし。
「轢断」、なんと素晴らしい言葉だろう。この一言で全てが解決する。断っておくが、わたしは自殺するつもりではない。
医師が切ってくれないから、このどうにもならない脚を切断するだけだ。
自殺を考える余裕(?)なんて、そのときには無かった。

ひんやりしたレールに脚を載せて横たわると、星がたくさん見えた。私は「恐怖」ではなく「希望」を感じていた。
駅前で脚のない軍人さんを見たことがある。脚がなくても生きていける。これが私の唯一の希望なんだ。

「もしもし、何をしているんですか」人声が近づいてきた。
「見れば分かるでしょ、脚を切るところ」夢だと思った。田舎の町外れ、こんな時間に人が通るはずが無いのは良く知っていた。
いつも望遠鏡を持ち出して天体観測したり、詩を書いたりしていたから。
「危ない事をしちゃいけない、家まで送るよ」お酒を飲んでいるらしい。でも飲み屋さんなんか無いし、近所の人でもない。怪しいな。でも関係ないよ、邪魔しないで。
「とにかく起きて。家の人には小父さんが話してあげるから」話すって何を?それよりわたしの手を離してよ。
「何か訳があると思うけど、いけないよ。家の人に話そう、一緒に行ってあげるから」それは困る。両親に知られては自由が無くなる。
「小父さん、なんでもないです。ちょっとここに寝てみたかっただけなので。
家は向こうのほうですが、ひとりで大丈夫です」立ち上がって軌道から出た。
「ほんとに大丈夫ですから、もう行ってください」振り返る後姿に手を振って見せた。
 誰なんだろう。普通の人ではない感じ。急に睡魔が襲ってきた。久しぶりに少し眠れるかもしれない。

再び現実が戻ってきた。志望大学を決めねばならない。東京に行けば大きな病院もたくさんある。
希望を持っていたわけではないけど、この田舎からは出て行きたい。痛みを抱えては日常生活が普通にはできない。
どうにもならないと分かって、すんなり受け入れられるほど簡単でもない。もがけば余計苦しむ事になる。
心はいつも葛藤している。その痛みはわたしの体と精神の大部分を占拠して、しっかりと住み着いた。
「共存」なんて生易しくは無い。それでも私は工夫した。パスカルは歯の痛みを忘れようとして三角形の定理を考えた。
「目の上のたんこぶ」を気にしてはいけない。忘れよう、気を紛らせよう、ほかのことを考えよう。
自分が二人になった気がした。苦しむ自分をもうひとりが見ている。
二人は理解しあっているが、痛覚は共有していないらしい。ひとりが苦しんでいても、もうひとりは頑張って受験勉強している。ただ、物理的には体が一つなのでどうにもならない。

家族と離れて、東京で一人暮らし。この自由はありがたい。不用意に「痛い」顔をしても誰にも見られない。
部屋では泣いても苦しんでも安心。

数ヶ月の受験勉強、受験、たった一人での上京、これらは全部もう一人の自分がこなした。私は昼も夜も激痛で何も考えられない。僅かな睡眠も満足に取れない。疲れ果てていても怖い夢で目が覚める。
丸太の山が崩れて足が下敷きになる、崖から転落して足が折れる、横たわっている私を象が踏み潰す・・・はっとして目が覚めると、声も無く涙が流れている。
高校時代。楽しい事、合格発表、夢や希望、そんな記憶は私にはない。
青春時代・・・こんな青春があるものだろうか。包帯を巻いている自分の姿、声を出さずに泣くという特技が身についた。
他には記憶がない。発病の日から、普通の16歳の私はいなくなった。

大学に入って一人になってからは、両親に知れずに済むこと、遠隔地証明の保険証が手に入ったことで気が楽になるかと思った。
でも掃除、洗濯、炊事は当然自分でやらねばならない。立っていなければ出来ないこれらのことが、簡単には出来ないと思い知らされた。誰にも知られないように意地でも通すしかない。親に知られたら呼び戻されるに決まっている。「女の子は無理して大学まで行かなくても・・・」そういう時代だった。一人でいれば気が弱くなる事もある。ホームシックにもなるかもしれない。意地が意地の上塗りをする。私は絶対弱みを見せない。自分自身に対してもだ。もし少しでも甘えれば、私は崩れるだろう。文字通りこの足では立ってゆけなくなるだろう。

意地がどんどんエスカレートしていく。元々負けず嫌いの性格も有ったかもしれない。
痛みから気を反らすには、1分1秒の隙もなく勉強に打ち込むしかない。(遊びに夢中になって忘れるという選択肢は思いつかなかった。多分遊ぶという概念が私には無かったのだろう)。勉強は腰掛けてするものだから足にとっては一番ありがたいことだった。フランス語学科に入って半年後には原書が1冊読めていた。1年生としての文法は当然半分までしか進んでないのに。読めると面白くなってどんどんのめり込んでいく。食事や睡眠にはまるで注意を払わなくなった。

極度の睡眠不足、栄養不良、痛みのストレス、普通ならこんな事が続くはずは無い。ところが私は不思議な発見をした。
疲労がひどければひどい程、痛みを耐えやすい感じがする。気を反らす作戦がうまく行ったと思った。そして輪をかけて勉強に夢中になる。2年で早くも論文のテーマが決まり、徹夜で時間を作っては美術館や映画、一人旅にも出かけた。疲労していればそれくらい歩けるようになっていた(?)。変な言い方かもしれないが、それは脳内麻薬:βエンドルフィンの為ではなかったのか。後になってそう気がついた。

東京での大学生活をそれなりに楽しむ事が出来た。ただ、精神的にゆとりは無かった。1分でも隙を作らないよう、無理やりにスケジュールを詰めた。ダムの壁のように、僅かな隙間から水漏れが始まるのを恐れたからだ。
2年目は論文の準備も加わりますます多忙になった。卒業に必要な単位数は決まっているので、普通、月曜から土曜まで、9時から5時まで、出席する事は無い。でも私は全てを授業で埋めた。ほとんどが語学であるから、その予習だけでも大変な時間が掛かる。本も読んだ。論文の為には枕元にノートを置いて、眠っていても思いついたことをメモした。
勉強は面白くて夢中になれた。何より大事なのは、時間に隙を作らない事、疲労の極限を維持すること、その目的の為には、大学で論文を書くのが一番良い。

そのうち、もう一つの発見をした。自分が二人いるらしい。16歳の時も、二人の自分で、体の痛みと、日常の行動とを分担していた。でもそれは痛みを無視する為に、私が意図的に分けたからだ。今回は違う感じがする。16歳の時、記憶の無い部分がある。でもそれは、余りの痛みで、痛みしか記憶に無いし、他の事を気にする余裕が無くて覚えていないのだ。今回は違う。
人前では平気な顔をする、一人のときは苦痛で歪んだ顔になる、その二つの顔を上手く使い分けているはずだった・・・。少しずつ自分の行動がおかしいのに気がついた。目的を持って家を出るのに、どこに行くのか分からなくなってパニックになる。いきなり人に「今日は」などと声を掛けられると、意味が分からず、返事も出来ない。日常使う「かさ、鞄、食器、等々」がふと見知らぬ物に見えて、使い方も名前も分からない。

夕べも苦しんだはずなのに、自分の記憶が無い。アイデンティティの不連続・・・。痛みが始まってからどうやって過ごしたのか分からない。まるで痛みは治ったかのようで、元気な自分しか記憶に無い。
多重人格(多分2人)だとすれば説明がつく。でもアイデンティティが途切れると思うとパニックになる。特に夜は痛みが強いので記憶が消える可能性が高い。「昨日の自分と今日の自分は、本当に同じ人物なのか?」「どうやってそれを証明する?」とてもばかげた疑問で、普通はそんなことを考えないだろう。しかし眠るのが怖い。眠らずに勉強し続けるしかない。
なぜか睡魔はやってこない。たまには少し休もうと思うことはあるのに、それさえ出来ない。眠気は感じないから構わないようなものの、数週間も続くと脈が速く体温が上がり衰弱する。それでも大学にはちゃんと出席している。

幻覚、幻聴が現れる。世界中がコンクリートで塗り固められたように、灰色で、人々も車も動いていない。人格乖離だろうか。この世界にいるのは3人目の自分だ。この自分はたまに問題を起こす。幻覚に追われて逃げる時コンクリートの塊にぶつかる。でもこれは「人」なので警官に捕まえられる。灰色の世界に自分しかいなくて、幻聴がうるさく言うのでわめき返していると警官につかまる。追いかけてくるので物を投げつけて抵抗していると警官につかまる。
私が3人になったことで、それぞれは苦しんでいるだろうけど、私自身はむしろうまく行くようになった。大学4年が終わる時には、規定の2倍の単位が取れていた。

大学院に入ってからも同じ生活が続いた。心理学を勉強してみて、本物の多重人格ではなく、その仕組みを私が上手く利用しているのかもしれないと思えた。いづれにせよ、難しい痛みと共存する為の私の工夫に他ならない。精神的には大きな犠牲を払った事になるけれど、誰にも気付かれず、痛みの余り自殺する事も避けられ、普通の生活ができた。
極度の疲労で脳内麻薬を作り出す事、3人の自分で世界を分担する事、そのバランスが崩れた時、痛みに耐えられず、狂気の中に一人でいる恐怖にも耐えられず、自傷に走って強制入院となった。僅かしか眠らない事も体力的にもう限界だった。
狂気の中で暴れる自分を、見つめている眼があった。直感で私の「理性の目」だとわかる。自分の全てを観察しようとしている。時にはうんと小さく遠くに退いてしまう事もある。「この眼を閉じてしまえば楽になる」そんな誘惑に駆られる。でもそれがどうしても出来なかった。
臨死状態の時も、「あちらに行けば楽になる」と誘う声がするのに、どうしても行けない。未練も無い、あちらの世界を望んでいるのに何かが引き止める。

入退院を繰り返し、睡眠薬を常用するようになり、それでもこちらの世界に戻ってきた。相変わらず極度の疲労は忘れられず、睡眠も少なくて精神科医を困らせた。どんなに疲れても働くし、睡眠も少なくていい、就職した会社にとっては好都合で、休みも取らず残業はいくらでもする。当然業績は上がるし待遇も良くなる。痛みを忘れる為にまた仕事にのめりこむ。馬鹿な繰り返しだと思うけれど、他に方法は無かった。
勿論沢山の病院ヘ行った。両下肢の骨が痛いと自分では考えているので、整形外科ばかり行く。レントゲンには何も映らない。鎮痛剤か湿布をくれるけれど、何の役にも立たない。2度目の通院をする事はほとんど無かった。「腫れているから湿布でもしておけばいい」それ以上の返事は無かった。10年も腫れ続けるなんてあり得るのか?おかしいとは思わないのか?

B大学附属病院で、医師が初めて関心を持ってくれ、半年掛けて数々の検査と、骨のバイオプシーをしてくれた。脹脛を切って骨細胞を取り出し顕微鏡で見る。6センチほどの傷が残った。辛い血管造影もやった。いくつもの診療科目を回って、考えられる全ての検査はした。大量の薬を試した。
大変な労力と時間を費やした。それでも何とか痛みを止めたい。病名を知りたい。治してくれとはいわない、痛みを止める薬が無いなら病名だけでもいい、知るだけでも満足できるだろう。この世には治らない病気はあるのだから。どんな病名でも諦めはつくだろう。

半年後、全ての検査が終わった。「残念だけど、これ以上してあげられることはない。痛みは辛いだろうけど、どんな薬も効かない・・・ごめんね」若い医師だった。その場で私は泣いた。結果が出なかったことに失望したからではない。初めて、医師に「ごめんね」と言われたからだ。
もうこれでいい。これだけしてもらったのだから諦めよう。
二度と整形外科に行く事はないだろう。整体、カイロプラクティック、低周波・・・評判を聞いては試しに行った。確かに肩こり、腰痛、頭痛には良く効く先生もいた。本来の痛む部分に変化は無いけれど、痛みを我慢する為に随分体中に力を入れるものだから、あちらこちらが痛むようになる。それになぜだか奥歯が次々に砕けて一本も無くなった。虫歯でもないのに不思議に思っていると、王選手が「バットを振る時、奥歯を噛み締めるものですから、無いんですよ」とインタビューに答えているのを見て理解できた。

私は私のやり方でやるしかない。時間の隙を作らないこと、過労と不眠の限界を維持すること、ストレスは抗鬱剤で解消し、限界になったところで睡眠薬で眠る。人格を分裂させるのは危険だからやめよう。
人間は耐えがたい痛みの時失神するはずだ。記憶喪失になる場合もある。小動物は危険に直面すると擬死という本能がある。植物だって花粉を殻で包んで守る。要するに生き物はみんな、生きるための防衛策を持っている。私は単純にそう信じる事にした。
もう病院には行かない。病名も探さない。薬も当てにしない。もう充分鎮痛剤と向精神薬には詳しくなっていた。必要な薬は自分で決める。誰よりも自分の症状には自分が詳しくなっていたのだから。

ふたたび猛然と働き始めた。30半ば、発病以来20年。痛みが無い事などは想像も出来ない。「私の足」=「私の痛む足」、形容詞がついているのは当然のこと、どうにかしようと思うほどの希望は・・・なかった。

10年後、さらに悪化するとは思っていなかった。一人の医師との出会いから、2人3脚の闘病が始まり、「瞼でもパソコンが打てるんだよ。諦めてはだめ」と励まされながら、確かな手応えを得て乗り越えていくまでの紆余曲折、それを語るにはもう少し時間が、必要なのです。


Essay

相変わらず深夜まで仕事に夢中になっていた。でもその日、なんだかハンドルを握る手に力が入りません。腕を上げている事もだるい感じで、片手を交替で休めながら、こんな運転では危ないなと思いながら、何か腕の疲れるようなことをしたかを考えました。普通こんな事はありません。まして利き腕で無い左手もだるいなんて。

翌朝起き上がろうとして愕然としました。立てない、足にも手にも全く力が入らない!素早く頭の中で全身をチェックしてみる。麻痺ではない。両足のいつもの痛みは感じている。両腕、両足の関節も筋肉もすべてが痛む。風邪で高熱が出ると節々は痛むけれど、風邪の様子も無い。

電話機が持てない。携帯電話で会社に休むと伝言した後は意識が無くなったらしい。どれ位経っただろうか。仕事が気になる。身動きは出来るけれど、声も出ず、立てない。まず水を飲まなくてはと思って動いているとベッドから落ちた。

玄関で聞きなれた同僚の声がするのに返事が出来ない。声が去って、またやって来た。管理人の声もする。ドアを開けている。同僚が助けにきてくれたのだなあと、変にしみじみした気分になった。

管理人がベッドから落ちている私を見て、すごく驚いている。慌てている様子がスローモーションのように、どこか非現実的な映画のようだ。私は同僚に目だけで「今何時か」を聞いた。「休むといったきり3日経っている」という答えに、今度は私がスローモーションですごく驚いた。

救急車が来た。意識が無くて3日目に助けられるのは2回目だ、とか、この市は救急車が割に早い、などと取り留めのない事を考えていた。「何度も電話したのに出ないから心配した」と言ってたなあ。電話には過敏な私が気付かないのは、やはり意識が無かったのだろうか。睡眠薬で眠っていてもちゃんと電話には出るのだから。

これが8回目の入院になるかな。もっと多いかもしれないけど、記憶に無い部分がある。病名も色々で、実に重大なものから、笑ってしまうようなものまである。ここに全部羅列してみようかしら?これを一瞥すると私ってどんな人間像になるのかしら?

第一、これらの診断名を信じたら私は生きていけない。そんなことを言う前にもうすでに死んでなくちゃならない病名がある。いわゆる「生存率」。社会的に抹殺されてしまいかねない病名もある。
病名、これが無くては実に困る。「診断書」という紙切れ1枚が計り知れない権力をもっている。警察官がちらりと見せる「黒い手帳」のように。
ところがひとたび「確定診断」されると、また実に困る。社会的差別と偏見もある。医療拒否や医療上の差別もある。特に、知られて無い病名だと医師に嫌がられることになる。

今回は神経内科に入院した。結構丹念に調べてくれる。指の先からつま先まで、刷毛でくすぐったり、針をちくちく刺したり、ゴムのハンマーで叩いたり。神経内科というと割に先端という感じがするけれど、7つ道具を見てみると非常に原始的。18世紀から変わってないと思うよ。但し7つ道具の鞄に割り箸が入っているのは日本だけだろうけど。

両手、両足に力が入らないことがどんなに困る事か、普段は余り体験できない。痛みもさることながら、全てを介護してもらう自分の姿に慣れるには、かなりの時間がかかった。
食事時間はヘルパーさんも忙しく、介助の必要な患者も多い。見た目にはどこにも問題の無い私が、運んでもらった食事を眺めているだけで、手を伸ばすことが出来ないでいても、「あら、食欲無いのね、下げますよ」と片付けられてしまう事もしょっちゅうあった。「食べたいけれど手に力が入らない」ことを理解してもらうのは難しい。
誰かヘルパーさんが来てくれるまで「介助お願いしまーす」と叫ぶしかない。食べさせてもらうのもまた難しい。嚥下困難な患者さんの場合はミキサー食になっているから、誰でも自然に注意する。わたしの場合、元気そうで普通食だから、食べさせる側もついついスピードアップしてくる。目を白黒させながら飲み込んでいくのが精一杯。

お風呂に行くには、裸でストレッチャ―に載せられ、シーツを掛けて運ばれていく。外来やお見舞いの人もいる一般廊下を一部横断する。こんな時ふわりと風でも吹いたらたいへんだと思うと、すごく緊張する。通行人は知っているのだろうか?シーツ1枚の下は・・・(?)でも顔にも白い布が掛かってるとまずいな、(霊安室行き?)。ブルーのシーツなら手術室へ行くように見えるのかな。なるべく天井だけを見るようにする。
入浴のリフトは上手く出来ている。ストレッチャ―からリフトで吊り上げて、台に載せる。頭側と足側から2人のヘルパーさんがものすごい速さでシャカシャカと洗い、泡を流したらリフトで湯船に沈めていく。メッキ工場でこんな風景を見学した事があったな。と思う間もなくリフトが上がってストレッチャ―に戻される。
私にとっては僅か数分だけど、ヘルパーさんは4時間やるそうで、蒸し暑くてたまらないそうだ。1日で2キロ瘠せるんだそうだ。勿論あとで水を飲むと元に戻るけど。

そういえば、随分若い頃、精神病院に入院していた時は、広めのお風呂に3人ずつ患者が連れて行かれて、頭にシャンプーをかけられた。危険だから決して手に持たせてはくれない。そしてホースで水をかけられた。真夏だから冷たくは無いけど、大変ショックを受けた。ここでは患者は人間ではないのだとはっきり言われたのだ。
歯磨きをしてもらうのはまだいいとして、困るのはトイレだ。ふわふわの紙を相手にどうにもならないのだから。
1つ1つ上げると切りが無い。人間は両手を使うものとして進化してきたのだし、日常生活も当然それが前提になっている。だんだん介護の事が考えられ、介護用品も沢山出来てきた。でもやはり、自分でやることを誰かにしてもらうことは、とても気詰まりだ。

こうして不自由で、意のままにならない入院生活が続いた。でも悪い事ばかりではない。45歳になっていたけど、メイクしてないとかなり若く見えるらしい。物珍しさからいろんな人が声を掛けに来る。「若いのにどうしたの」「どこが悪いの」ひとしきり質問攻めに遇うけれど、後は親切によく世話を焼いてくれる。
どの患者さんとも親子ほど年が違う。「可哀想に」と言われるとなぜか嫌な気がするけど、悪気で言ってるのではないし、「うちに引き取って娘にする」とまで言って可愛がってくれる人もいた。不自由だからこそ味わえた楽しい入院生活だった。

検査は何をやっても結果が出ない。神経内科では手詰まりになってきた。いくつもの病名が出ては消えた。筋ジストロフィー、多発性筋炎、RSDの3つが有力だった。リウマチと変形性膝関節症は確定した。他に血管炎、末梢神経ミオパチーの疑いも残った。

連日血液検査をするので、睡眠薬はもらえない。痛みと不自由と不眠、深夜はかなり辛い。毎夜、車いすに乗ってナースステーションに行っては「痛い」「眠れない」と説明する。しかし出せる薬は決まっているからどうにもならない。シップを貼ってもらい、少し話し相手をしてもらう。本を読んでもいいといってくれるので「腫瘍マーカー」の使用法だの、医師が参考にする本をしばらく読む。
深夜にはY助教授に良く会う。マウスで強皮症の実験をしている。「先生は何時間寝ましたか?私は2時間です」というのが深夜の挨拶だ。「私は眠くならないので、マウスの観察代わってあげましょうか?」と冗談を言う。

そんな訳でY助教授は私の自覚症状を良く聞いてくれた。でもどうしても想像できないという。神経内科医にとって患者の痛み方の表現は、診断の決め手にもなるくらい重要で、病気によっては表現がはっきり決まっているものもある。「刺すように痛い」「やけ火箸を刺したようだ」「患部が自分の物ではないみたい」など。私も表現は発病以来決まっている。「骨髄に火薬を詰めて爆発する瞬間の痛み」・・・それで分からなければ「像が私の足を踏みつけて全体重をかけて砕こうとしている」「巨大な鉄骨が足に落ちてきて骨が粉々になったみたい」・・・それでも分からないと首をかしげている。
当時は「想像力の貧困だ」と思っていたけれど、今思うに、私の表現は分かるのだけど、神経内科医として知っている(あるいは予想しうる)痛みとは合致しないということなのだ。説明している私の方も、痛みに関心を向けるのでつい、涙がこぼれてしまう。無視することで耐えているのだけれど、良く我慢できてるなあと思う。
深夜のこの対話が私にとっては、週1度の教授回診よりはるかに良い結果をもたらした。診断は進まないものの、Y助教授を信頼する気持ちがカンフル剤のように効いた。膠原病内科に転科することになったときは、かなり動揺した。

血液検査で、断定は出来ないもののいくつか膠原病を示すデータが出ていた。いずれにせよ神経内科としては「該当しない」ということだ。膠原病の名前は知ってはいた。31年前「結合組織炎」といわれ、その後「それは膠原病のことだ」といわれていたから。そして「10年以内に死ぬ」ともいわれた。 でも31年間放置したままで生きてきたのだから、膠原病といわれても余り実感が無かった。「軽い」膠原病なんだろうと思った。すぐにパソコンで膠原病について調べたら、今では手遅れでなければ死ぬなんてことはないと分かった。
やっと病名がついた!「全身性エリテマトーデス」・・・なんと立派な病名ではないか。私はうれしかった。変に思われるかもしれないけれど、不治の難病といわれた方がすんなり受け入れやすいのだ。「なるほど、だからこんなに痛むんだ。難病なんだから仕方ないね」と。 膠原病内科としての新たな検査の山、ステロイド大量投与、休む暇もなく点滴が続く、髪の毛が抜け、ムーンフェイスになる、そんなこと少しも苦にならなかった。病名が分かって正しい治療をしているのだから・・・そう思い込んでいた。

ステロイドの点滴で最初は楽になった気がしていた。しかし4~5日すると、どうも効果が無いような気がしてきた。血液のデータは確かによくなっている。とするとこの痛みはどこから来ているんだろう。教授は「SLEの場合、関節の痛みが出ることはよくある」と、余り相手にしてくれない。私がもっとも不審なのは、発病以来31年も放置していたのに生きていること、抹消血管に脱髄があること、(これはかつて血管が炎症を起こしたことの証拠)、全身症状の割には痛みだけが強い。いつからSLEなんだろうか。血管も新陳代謝しているはずで、31年前の炎症の痕跡が今残っているとは考えられない。

何も解決しないまま日々が過ぎ、突然地元の病院に転院してくれといわれた。「普通3ヶ月しか置けないけど、あなたの場合は転科してるから6ヶ月で限度です」だって。教授に食い下がってみた。何もわからない状態で、まるで突き落とされたようだ。「SLEは安定した。紹介状を書くから定期的に検査してフォローすれば大丈夫」「痛みと筋力低下は線維筋痛症と慢性疲労症候群の混合型だと思う。」退院1週間前に初めて線維筋痛症、慢性疲労症候群という名前が出た。いきなりそんなこと言われても。何の説明も無いのか。要するに逃げなのか。紹介状のコピーと血液検査の全結果をもらうという条件で、私は1週間後に退院した。裏切られた気がした。確かにSLEの判定は出たけれど、痛みのほとんどは線維筋痛症と考えられるのに、その治療は無い。退院のその足で屋上から飛び降りようと思いつめた・・・が、実際、自分の足で歩けはしない。ボランティアの人が来て、車椅子でタクシーに運ばれた。
いつか、きっと歩けるようになったら、ここに来て、ここの屋上から飛び降りてやる、そんな変な決心を固めながら病棟を後にしたのでした。半年の、切り刻まれた検査の結果が、数十枚のデータが、私の得たものでした。ここから絶望へと踏み出す退院でした。

6ヶ月ぶりにアパートに戻ったのは初春でした。部屋はひんやりして、救急車で運ばれて出て行ったときのまま何一つ変わっていません。私の病状も変わっていません。立てても数歩歩くのが精一杯ではどうやって一人で暮らして行けるだろう。でも変わったのは近所の人たちでした。特に近所付き合いも無かったのに、救急車で運ばれて、半年も帰ってこないのでうわさが広がったのでしょう。買い物やゴミだしに行ってくれ、通院のタクシーを呼んでくれ、介助のボランティアを申し込んでくれました。

退院して初めて、動けないことの、手足が使えないことの深刻さを知りました。病院なら看護婦さんや状態のいい患者さんがいつでも一緒にいる。不自由とはいえ何かと手を借りることが出来る。一人暮らしでは、さて、どうやって食べる?お風呂はどうする?トイレは?歯磨きは?1日のほとんどは寝たきりですごす。天井を見つめていれば、悪い考えしか浮かんでこない。
死ぬ方法にはやはりこだわりたい。周囲に迷惑はかけたくない、苦しみも少なくしたい、失敗の無い確実な方法がいい、後遺症が残ると困る・・・贅沢な自殺志願者だけれども、痛みは慢性であるから「思いつめてとっさに」と言うことはない。1日中動くことも出来ないから、そんなことを考えめぐらす。やっといい方法を考え付いても「手足が不自由では実行できない」事に気がつく。まさか誰かに介助してもらう訳にもいかない。誰にも知られず自力で行うのは大変難しい。それでまた考え直し。

毎日ほとんどの時間何も出来ないので、こういうことを考えていた。たまには発作的な痛みでパニックになり包丁をつかんだこともある、119番に電話したこともある。概ね、考える時間が長かったので、行動にまでは移らなかったと思う。(それでも2回はあった)。
夕方決まった時刻には近所の人が誰かしら、食料品を買ってきてくれる。ドアまで行って、お金を支払うのも大事業で、ふたの開かないものはその場で開けてもらう。食べるのも難事業だ。食べやすいものは、パン、小さめのおにぎり(大きいと重くて持てない)、小さな牛乳はストローを刺して貰う。1日1食、このときは手元の作業が大変なので、死にたいという気持ちは忘れている。全く現金なことだ。ただ、病気に負けて死んだとは思われたくないという意地があった。

タクシーに担ぎこまれるようにして病院に行く。もちろん何の期待もしていない。そこでふと「睡眠薬がなくなっているからもらっていこう」と思いついた。幸い心療内科があった。Y先生である。ここから劇的な回復が始まるとは予想も出来ないことだった。
大学教授とは打って変わって、何でも答えてくれ、忙しがることをしない。だからこちらも「3分」を気にしないで「30分」くらいは気楽に話せた。初めは不眠の話しかしないつもりだったけれど、数回診察を受けているうちにすべてを話してしまった。もちろん専門分野外のことなのに、痛みには理解を示してくれ、「勉強するから一緒にやろう」と言ってくださった。

とにかく生活を何とかしなければ。入浴、着替え、洗顔、歯磨き、そういうことが全くできない。先生がすぐに訪問看護の手配をしてくださった。週3度来て頂いて身体介助のほかに、医療用のレトルト食品を持ってきて温めてくれ、入浴しながら冗談を言って笑わせながらさりげなく励ます、雨戸を締め切りだった部屋も明るくなった。これで少しは人間らしい生活になった。まもなく難病申請をしてくださって、ヘルパーさんも派遣されるようになった。

これほど手厚い看護を受けたことは無かったのでうれしかった。痛みと絶望と、死にたくない気持ちがいつも葛藤した。こんなにしてもらっていいんだろうか、何か生きる意味が欲しかった。来てくれる2時間以外はやはり一人なので落ち込んでいたのだろう。2年後に看護婦さんから「あの頃は顔は笑っていたけど、仮面うつ病だった」といわれた。これだけの支えがなければ生きているのは難しかった。
痛みに関して私は先生と「あらゆる可能性は試して見る」と約束した。後で分かったけれど、先生は精神科医だけでなく、内科、呼吸器科、でもあり、末期がん患者の在宅医療も診ておられた。「町医者は八百屋だよ」が口癖だった。先生の知識と経験、私のデータ(記憶)を総動員し、根気良く現状をレポートし続けた。本来「線維筋痛症や慢性疲労症候群に効く薬は無い」とされているので、簡単には痛みをとめることは出来ない。

試行錯誤が続いた。星状節ブロックは効かない、レーザーも効かない、痛みの閾値を下げる方法も効かない、ほとんどの薬が効かない、そんな中で「パルクス」の点滴が「慢性疲労」を楽にすることが分かった。インターネットで日本中とアメリカの資料を検索した。ノルアドレナリンが多いことが関係するかもしれないと推論した。セロトニンも関係あるかもしれない(当時はまだセロトニンの関与は知られていなかった)。そこで、四環系抗欝剤、筋弛緩剤、睡眠調整剤、血行改善薬、ビタミンなどで処方が完成しつつあった。
そんな時NHKで柳澤桂子さんのドキュメンタリーが放送され、ボランティアの人が手紙を出してくれた。お返事を頂き、処方をみて、先生の方向が正しいことが分かった。それでも絶え間なく効果を見ては薬を入れ替える作業は続いた。2年後、私は事情があって県外に引越しをするために先生とは別れなければならなくなった。先生は在宅ケアが受けられるように、専門医の診療が受けられるように、何かと手を尽くしてくださった。

別れが近づいた頃、「寝たきりでも、瞼でパソコンは打てるから諦めるな」と言われた。また、(手術をしないで癌を治したという例があったので)「奇跡を起こせる力があるなら(私にも)奇跡を起こしてあげたかった」とも言われた。
 私は泣いた。これほど親身になってくれて先生はいなかった。この先一人でどうなるのか不安もあった。でもどれだけ苦しんでも、この言葉を頂いたことで私はやっていけるだろうと思った。 

線維筋痛症友の会 JFSA Since2002/10/1