闘病記 01 Struggle against disease record 01

「病名を下さい」・・・わたしの闘病記

Essay

想像力とは、既知のイメージを組み合わせたキメイラでしかないとボードレールは言っている。
経験外のことは理解したくないと言う心理もある。人の苦しみは分からない。病気にせよ精神的な悩みにしろ、経験した者でないと分からない。想像力豊かな人でも、「苦しみの種」を経験していないと想像のしようがない。

病気の苦しみ、痛みも人にはなかなか分かりにくい。身内に病人がいたら、ある程度は察しがつく。
しかし残念な事に医者はたいてい健康である。

病院の待合室でよく声をかけられる。整形外科の受診者としては若すぎるので、他の患者の関心を惹くらしい。
「どうされました?骨折ですか?」
私は返事に困る。
「怪我ではないんです。骨の病気らしいんですが、わからないんです。」
「そうですか。未だお若いのにね。」
こんな会話を私はもう31年も繰り返している。声をかけてくる人は50代以降。
私は16歳から始まり今は47歳になる。

この痛みが始まったあの日、あの瞬間は忘れられない。恨みもしない、憎みもしない。
そう出来たらいくらか楽だろうけれど。誰を恨んだらいいだろう。
高校2年、テニスに夢中で、インターハイの予選に出るのを楽しみに練習を積んでいた。
あの日の体育の授業は跳び箱だった。体育はいつもビリで、跳び箱も苦手だった。一番低い3段を、私だけが跳べないで、4回目を跳ばされた時、両足にズキンと痛みが轟いた。
捻挫とは違う。意識が薄れそうになる私に、激しい痛みがまだ足があることを思い知らせていた。放課後長い時間をかけて町の整形外科にたどり着いた。
レントゲンには異常がなかった。両足の膝から踝の間が太く腫れて、発赤も見られた。
骨膜炎かもしれないのでしばらく様子を見ると言われ、痛み止めのポンタールと、ガラス瓶にはいった湿布薬(当時は便利なハップなどなかった)をもらって帰った。
ところがうちに帰ってからも痛みは増すばかりで、湿布薬をガーゼに含ませ、一時間ごとに取り替え、眠る事も出来ない。明け方疲れ果ててうとうとしても痛みですぐ目が覚める。さてどうやって学校へ行くか。
痛くて立つのもやっとなのに歩けるか。しかも通学にはバス、汽車(当時は未だ電化されていなかった)、自転車を使って2時間かかる。重い水薬の瓶も持って行かねばならない。

普段でさえ6キロもある重い鞄、薬の瓶に替えのガーゼに包帯。一足毎に涙が出そうだった。
しかも通勤通学ラッシュで、乗り換えは走らねばならない。一本乗り遅れたら一時間遅刻だ。
何がなんだか、とにかく必死で学校までたどり着いた。一つ授業が終わるたびに更衣室でガーゼを取り替える。
初日で疲れてしまった。帰りに整形外科に寄るのも大きな負担だ。
両足がもぎ取られそうに痛むので、一歩でも歩くのは少なくしたいのに。
「骨膜炎ならレントゲンでわかるんだけれど、違うようだ。骨髄炎かもしれないからしばらくレントゲンで追跡してようすをみましょう。」
「ポンタールは全く効きません。なんとか痛みを止めてもらえませんか。
のんびり様子を見ているほどの余裕はないんです。」
「カプセルの数は指示通りにしていますか。」
「いえ、少し多めに飲みました。でも許容量の範囲です。」
「薬の事は医師の私が決めます。勝手な事をしないで下さい。
それとも、言う事が聞けないのなら責任は持てませんよ。」
「ポンタールの事は私もよく知っています。効かない薬を続けても無意味ではないですか。
治るのなら先生の言うとおりにしますけど。責任が持てないとはどういうことですか。」
なんと生意気な!医師はそんな顔をした。しかし私も必死である。
とにかくこの痛みを止めてもらわねば今夜も一睡もできない。
もっと食い下がろうとしたけれど、医師の顔を見て、虚しいと思った。

この町には整形外科が他にはない。仕方なく引き下がっておくしかない。
骨髄炎なら2週間ほどレントゲンを見れば分かるだろう。それまで我慢するしかない。
でも医師の態度に腹が立つし、痛くてたまらないのだから何とかして欲しい。
「とにかく薬は替えて下さい。登校するのも大変なんです。ボルタレンを試してみたいですが。」「私に指図するつもりなら、さっさと帰ってもらおう。知ったかぶりをして。治療の方針は私が考える。口出ししないでもらおう。」
「だったら何の病気なんですか。痛いのは私なんです。早く何とかしてくださいよ。」
「来週レントゲンを撮るから結論はそれからだ。」
辛い1週間だった。激痛で眠れない。一足歩くにも涙が出そうだ。早く痛みを止めて欲しい。
授業など耳に入らず、一時間ごとに湿布を取り替えるのが日課だった。
湿布と言っても冷たい水と変わりなく気休めでしかない。それでも何かしないと耐えられない。
両足が太ももと同じ太さに腫れ、包帯を巻いているので「象の足」と言われた。
しかし何を言われようと気にならない。痛みだけで気が狂いそうで、他の事にかかわっている余裕はない。
死に物狂いと言うのだろうか、ほとんど眠っていない。どのようにして過ごしていたのか記憶に無い。
人前では涙をこらえるので精一杯だった。夜は布団の中でポロポロ涙が出た。
泣く、というような感情はともなわず、ただ涙が出た。向こう脛をぶつけた時に思わず涙が出るように。

  出典:橋本裕子著「そうまでして生きるわけ~線維筋痛症だからと言って絶望はしない」                                                  佐久書房2012.4
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